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幸福論
 よくある話よ、と彼女は言った。

 本格的に混み始めるにはまだすこしかかるぐらいの時間帯の食堂の人影はまばらで、僕は容易く求める探し人を見つけることが出来た。講義が午後から始まる僕は、いつもなら昼は食堂ではなく家で食べてくるようにしているのだが、今日は一限の始まる時間に立て続けに入ったメールで完全に目を覚ましたため、早めに登校したのだ。
 水の入ったグラスと、この食堂で一番安い食べ物のひとつであるカレーののったトレイを手に、一応声をかけてから彼女の真向かいに腰掛ける。彼女も僕が来ることを予測していたのかもしれない。ひとりで食べるときはノートだの本だのレポート用紙だのを広げるスペースに、今日は何も置いてはいなかった。それどころか傍らに本の一冊もない。トレイの上には本日の定食がのっている。
「やあ」
「ひさしぶり」
 姿を見なかった三ヶ月のうちにぐっと雰囲気を変えてしまった女性はそういうと、肩口にかかっていた髪の毛を払った。のびたかな、と僕は思う。自信がないのは胸のあたりまであるまっすぐな髪の毛は実際は地毛ではなく、ストレートパーマのおかげだからまめに手入れをしなきゃ、と彼女自身がいつか言っており、その言葉通りに彼女の髪の毛の長さは割と一定しているように思えたからだ。そもそも男の目からでは、女性の髪の長さが微妙に変わっていたからと言って看破することはとても難しい。
「もうこないかと思ってたよ。夏明けても一度も来なかったから」
 何があったのか心配しながらもよくあることだと静観していた大学の学生課や、その他大勢の学生たちと違って僕は彼女の事情に少しだけ関与していたから、きっと何もかもがうまくいったのだろうと思っていた。今朝、お節介な人々から彼女が来ているというメールを立て続けに受け取るまでは。
 僕の言葉に彼女は淡くほほえんだ。
「そう?」
 軽く首をかしげて彼女はご飯を一口口に含む。彼女がゆっくりと口の中の物を噛み砕き、嚥下し終わるのを、僕はカレーが冷めるのもかまわず眺めていた。
「たべないの?」
「たべるよ」
 答えて僕もスプーンを手に取り、カレーを口に運ぶ。今度は僕の様子を彼女がじっと黙って眺めていた。僕がそれに気づくと彼女も再び箸をとり、食事を再開する。しばらく、お互いに目の前の食べ物に熱中した。
「――あのまま、いってしまったんだろうと思ってた?」
 先に食べ終わって、トレイを下げたついでにくんできたお茶を一口飲んでから彼女は尋ねてきた。僕はちょうど物をかんでいたので口は開かずただこくりと頷くだけにとどめた。
 夏の初めに彼女は重大な選択をした、筈だった。すくなくとも僕はここ三ヶ月ほどそう思っていた。
「そっか……」
「?」
「そうね……私も思ってたわ」
 窓の外を透かし見て彼女はそうつぶやいた。その口調の静かさには僕が彼女と会わなかった三ヶ月間が確かに詰まっていた。
 よくある話よ、と彼女は言った。
「私は逃げ出してきたの」
 その答えをまったく予想しなかったと言えば嘘になる。三ヶ月前彼女が、決めたわ、といったときに反射的に期待した展開の一つだった。
「でも……っ」
 それなのに反射的に出てくる言葉は彼女をとがめる言葉だ。
 すべてを捨ててゆくのだとためらいもなく言い切った彼女。
 後悔はしないと先へ歩き始めた彼女。
 彼女にその道をとらせたのが自分じゃないことを悔やみながらも、僕は確かにその瞬間の彼女に嫉妬を覚えたのに、なぜ彼女は戻ってきてしまったのだろう。
「後悔はしていないわ」
 静かに、穏やかな笑みすら浮かべて彼女は言った。
「でもあのひとは」
 途方もない重圧を抱えていたはずの〈彼〉は。
「ひとりではないわ」
 苦い物が混ざる笑みで、首を左右に振り彼女が答える。
「――」
「選択肢が二つしかなかったら私はたぶん今選んでいない方をとっていたわ。でも実際には私にとっては二つよりも多かったし、彼にとっては確かに選択肢は二つしかなかったの」
 彼女はいったん言葉を切る。そしてコップを口に運んでから、その中身がないことに気づいて顔をしかめた。
「甘かったわ、私たち。努力すればどうにかなると思ったのよ」
 そんなことだけですべてが動かせるなら、人生なんて軽いもんよ、と彼女は言う。その肩がやけに華奢に見えた。
「でも……」
「ふふ。さっきからそればっか。でもそうね、すきよ、今でも」
 さくりと、労力をつかわないような口調で、あまりにもあっけなく彼女は答えた。まっすぐに見つめてくる視線がつよい。窓の外から差し込んでくる光が目を灼く。
「すきよ。でも、それがどうだっていうの?」
 彼女が周りに押しつぶされることはないだろう。どれだけ負荷がかかっても、きっと彼女は自分の足で立ち、背筋を伸ばす。
 だが。
 彼女は。
「そのためだけにすべてを捨てろというの? ささやかなわがままのためだけに」
 彼女の思いの上にのしかかってくるのは沢山の命だ。それだけの命が抱えるおのおのの、ささやかなわがままだ。
 ――幸せになりたい。
 わがままというのもためらうような、誰もが抱くであろうシンプルな願い。
 彼女はあまりにも多数のそれを壊せなかったのだ。代わりに自分のそれが壊れたのだとしても。
 そして、僕にはそれが正しいとか間違っているとかはいえない。彼女もそれを期待しているわけではない。
 ただ僕に出来るのはひとつだけ。
 テーブルに肘をつき、目を覆った彼女がゆっくりと自分の幸せの死を悼む時間を、周りがじゃましないようにそっと、柔らかな光のあふれる世界へと連れ出すことだけだった。


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