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不実の月に誓うこと
 月を貴婦人だと言ったのは誰だったかは忘れたけれど、現在、俺の向かいでパソコンに向かい、時々奇声を発しては八つ当たるようにばんばんと机を叩いている年下の従妹は、まさに月のような娘だと思う。そのこころは気分屋である。
「うわーん」
 あ、また爆発した。彼女の力で机を叩かれても頑丈なちゃぶ台はびくともしないのだが、机上の紅茶の行方は心配した方がいいのかもしれない。カップの縁まで入れるべきではなかった。もうだいぶこぼれてしまっている。しかも、せっかく猫舌仕様に牛乳まで入れておいたのに彼女が気づいてくれず一口も飲まれないまま冷め切ってしまっていた。これではきっと、二杯目、三杯目も同じ道を辿るだろう。
「ちょっと、何冷静に観察してるのよ。あたしがこんなにレポートに苦しんでるのに」
 きっ、と彼女がこちらを睨む。
「現在、おまえがレポートに苦しんでいるのは課題が半年も前に出ていたのにほとんど手をつけていなかった所為で、俺はまったく関係ないはずだ」
 俺はその授業を取っていない。というか、そもそも俺は大学生ではなく院生、しかも大学も違うので取る事自体が不可能だ。この、年の離れた従妹はたまに――いや、いつもか――そんな不条理なことを言う。
「うっ。だって締め切りはもっと先だと思って油断してたんだもの」
 図星をつかれて彼女は悔しそうに唇をかんだ。そしてまた机を叩く。
「自業自得だから」
「うっさい!! でも昨日くろきちがこわれなければ今のこの状況は……!!」
 あああ、と彼女が彼女の目の前の俺のパソコンにすがりつく。くろきちというのは彼女が自分のパソコンに付けている名前だ。その名の通り黒いノートパソコンである。昨夜、唐突に凍って、なんだか彼女の手の終えないことになったらしく、一晩格闘したあげくうちに持ち込んだのだ。
 ――俺に持ち込んでどうする。詳しいのは俺ではなく姉貴だと、姉貴に連絡をとったら、それぐらい俺が何とかしろと言われた。しかし余計壊れても嫌なので拒否したら従妹は俺のパソコンをぶんどってくれた。レポート自体は書き始めた直後とかで、被害はほとんどなかったらしい。ただ、パソコンの前でおろおろしていたら時間が無くなっただけで。
「後悔先に立たず」
「しつこい!!」
 再び彼女の罵声が飛んでくる。しかたがない。気分転換させよう。
「とりあえず一息入れる? 好きなもの入れてやるよ」
 俺は読んでいた本に栞をはさんで立ち上がるとそう言った。
「んじゃトマトスープ」
 再び画面に集中し始めた彼女から、間髪入れずに返答が帰ってくる。わざわざ単価の高い物を言うなんて贅沢な奴だ。確かにおいしいので気持ちは分かるのだが、姉貴といい従妹といい俺の好物を横からかっさらっていくのがやけにうまい気がする。
「はいはい」

 俺はまず十分な量の水で薬缶を満たし、火にかけた。沸くまでの間に、スープの素を探したり、カップを出したりする。ひとり暮らしなのだが、人が来ても食器には困らないのはちょっとした趣味の所為だ。俺は暇つぶしにゲーセンに入ると、迷わず使えそうなプライズ系に走ってしまうのだ。おかげで家にはキャラクターもののばかでかいマグカップなどの食器類がいくつか棚にしまわれている。類似品は時計などだが、こちらは手間賃+αなどで友人達にうっぱらったりするのでほとんど手元に残っていない。時計は一個あれば十分だと思う。食器はあれば使うかもしれないと思うと棚行きになるので、場所がなくなってきた最近は捕獲をみあわせている。
「猫とパンダと犬どれがいい?」
 もちろん、棚を開けてとりあえず目に飛び込んだマグカップのキャラクターだ。が、彼女に答える余裕がないことも判っているので、答えも聞かずに一番手前のいっかくにゃんこのペアマグカップを出した。二つとも三匹のいっかくにゃんこがカップの内外を問わず走り回り、足跡を残しているという絵柄だ。いっかくにゃんこのマグカップはいくつかあったのだが、ほとんどのいっかくにゃんこは突発的に遊びに来る姉に連れ去られてしまい、今ここにあるカップは家の中では希少品である。
 軽く洗って、スープの素を入れ、湯を注いで、スプーンでよくかき混ぜる。途端に強烈なトマトの匂いがひろがった。
 猫舌の彼女のためにかき混ぜ用のスプーンを挿したままにして、俺は食料品の棚を再度漁る。最近実家から送られてきたばかりなので、まだいくらも消費していないクラッカーはすぐに見つかった。表面に塩がまぶしてあるだけのシンプルなクラッカーは夜食代わりとして少しは腹の足しになるだろう。

「ありがと」
 目の前にカップと封を切ったクラッカーを置くと、彼女はパソコンを叩く手を止めてすぐに手を伸ばしてきた。スープを適温まで冷ますべくかき混ぜながらも、画面からは目を離さない。先程の騒ぎようが嘘のようだ。
「少し目も休ませれば?」
「んー」
 聞いているのかいないのか、生返事しか帰ってこない。
「クラッカーもあるからな」
 言った途端、無言で掌が差し出された。しばらく観察してみたが、どう考えてもクラッカーを待っているとしか思えなかったので、試しに一枚置いてみたらそれはすぐにスープへ投入された。クルトン代わりのつもりなのだろうか。おいしそうだったので、俺もみならって半分に折ったクラッカーをスープに投入してみた。
 結構おいしい。これはいいかもしれない。これからやってみよう。
「終わりそう?」
「きかないで……いくらまとめてあると言っても量が半端じゃないのよ」
 無言のままスープを飲み干すと、少しは落ち着いたのか彼女はパソコンから目を離すとうーん、とのびをした。
「大変だね。まあ、書き始める前でよかったじゃないか」
「他人事だと思って…………!!」
 空のカップを持って立ち上がると、睨まれた。
「そりゃ他人事だから」
 一年生な彼女と違って気楽な院生であるところの俺は、夏休みの課題という物はほとんど頂戴していない。
「かっちゃんは従妹が大切じゃないの!?」
「パソコン提供してるじゃないか」
「それは直せなかったからでしょ! これだから文系は!」
 確かに俺は物心着く頃には既にパソコンが数台ごろごろしている環境で育ったとはいえ、俺自身がパソコンに関わっていたわけではないので、上の姉、芽(めぐみ)とちがってスキルレベルは並だ。従妹ほど初心者ではない、ぐらいの初心者なのだ。
「姉貴も文系だよ」
「でもかっちゃんはできないじゃない」
 正論だ。
「あーもー、めぐちゃん何時頃これるって言ってたんだっけ?」
 姉貴はうちのなかで一番パソコンに強い人で、俺の学校近くの会社に勤めている。今回のトラブルについては最初は「簡単すぎる」と来るのを嫌がったのだが、レポートに追われた従妹の泣き落としに負けたのと、金曜であったためか最終的には来ることを承知した。
「呑んでから来るって言ってたから……」
「――ほんと?」
 あ、しまった。
「ちょっと!?」
「文句は姉貴に言ってくれ。もともと呑む予定があったっていってた」
「それにしたって、もう日付変わるよ!? なんで気にしてないの!?」
 それは…………それは、たいてい、姉貴がうちに泊まりに来ると連絡をよこすのが日付を過ぎてからだからだ。――つまり慣れてしまったのだ。そりゃもちろん、起きている俺も悪いのだが。
 だが、真っ正直にそう言うこともできず俺が言葉に詰まっているところで、ちょうど電話が鳴った。反射的に時計も確認するとちょうど十二時をさしている。
「めぐちゃんかな」
「たぶんな」
 と、こたえて受話器を取ると、案の定姉だった。
『あ、克(かつみ)?』
「そうだけど、姉貴――」
『今日の空見た?』
 どこにいるの、と続けようとした俺の言葉を聞きもせずに、姉がしゃべり続ける。
「みてない」
『見てごらん。満月だよ』
 声がとても弾んでいた。
「は?」
『中秋ではなくて、晩秋の名月だけどすごく綺麗だよ』
「あねき……」
『かおちゃんにも息抜きすればっていっといて。太陽が昇る前までには行くから』
 そこで電話はあっさりと切れた。
「――だって」
 姉の言葉を伝えると、従妹は言葉にならないのか無言で俺のちゃぶ台をガンガン叩いた。
「外、出てみるか?」
 一応提案してみたが、答えは返ってこない。よほど耐えかねているらしい。
「香織?」
「――――いく」
 彼女の目が据わっていることについては気にしないことにした。

「うわ、ほんとだ。すごい月」
 月見の必需品、団子などを仕入れるためにコンビニへと行く道中に空を見上げたら、見事なほど白い月が浮かんでいた。それを見た彼女の機嫌は一発で直ったが、ほとんど空を見上げっぱなしでいつ転ぶかとひやひやした。空には雲もなく、真円の月が煌々と輝いていて、その明るさに気押されたように他の星々は鈍く光っている。
 それから俺らはコンビニでいろいろと仕入れた後、うちへ戻り防寒対策を整えて、部屋に申し訳程度についているちいさなベランダに出た。
「きゃっほい。きれーい」
「あまりはしゃぎすぎるなよ。近所迷惑になる」
「でもきれいだよ」
 俺は彼女が機嫌を直したばかりかすごく嬉しそうなのでほうっておくことにした。その脇で新聞紙を広げて座れるところを作る。思ったよりも寒かったため、厚めに敷いておいた。その上にやはり寒さしのぎのためのゲーセンからの戦利品であるぬいぐるみクッションを置く。姉貴の要望によって増えざるを得なかったぬいぐるみだが、こうして役に立つと少し嬉しい。――もちろんクッションにしたことが姉貴にしれたらとても怒られるだろうが。
「あー、なんかすっごく久々にお月さま見た気がする」
 しごく満ち足りたように彼女が言って隣に座った頃には、俺はもう買ってきた酒の一缶目を空けるところだった。
「あ、なんかいいもの呑んでる。ずるい」
「未成年だろ」
 と、良識ある人っぽく言うと、彼女は拗ねたように頬をふくらませた。
「じゃあかっちゃんは未成年でもお酒呑まなかったの?」
「いやまさか」
「でしょ? だからちょうだい」
 即答してしまったが事実だ。中学の頃からちまちま両親が呑ませてくれた。が、今の状況は別だ。
「レポート残ってるだろうが」
「はっ。現実がっ」
 どうやら忘れ去っていたらしい。
「今日はジュースで我慢しておけ」
「じゃあ今度おごってね」
「へ?」
「どうせだからお月さまに誓う――のはあんまよくないんだっけ?」
 何をさせたいのかいまいちよく分からないが、月を指すための人差し指をぴんと伸ばしたままで、ひょこりと彼女が首を傾げた。
「ああ……不実が云々……?」
 おぼろげな記憶を賢明に引っ張り出そうと試みるがいまいちうまく見つからない。
「月……不実……」
 不実な月…………? って、ああ、思い出した。
「たぶん『夜ごと変わる不実な月に誓わないで下さい』だ」
 出典、シェイクスピアの『ロミオとジュリエット』。誰でも読んだことはなくとも名前は知っているだろうと思う。俺もだいぶ前に一度テキストとして読まされたのでなければ読まずにいただろう。
「なあに、それ?」
「知らないのか?」
 こくりと頷かれて最近めっきり減ったと実感する脳細胞からどうにか情報を引き出した。
「『ロミオとジュリエット』の一節で、バルコニーのシーンの最後の方、だったと思う」
「へー。そーなんだ。バルコニーってあの台詞のあるバルコニー? でも微妙」
 あの台詞って何だよ? たしかに口に出すには恥ずかしいが。
「知ってるだけましだろ」
 むしろよく思い出したと自分でも思う。こういうときは姉貴などに聞くと詳細なメールが返ってくるのだが、いかんせん彼女はまさに今、何処かで呑んでいる途中なのでまったく期待できない。
「今度姉貴に聞いておくよ」
 そんなわけで後日得た真相はやっぱり、出会ったその日に愛を誓い合ったロミオとジュリエットが別れ際に交わす場面でのやりとりだった。月に誓おうとするロミオをジュリエットが止めるために言う台詞だそうだ。
 たしかに満月は別だったというが、欠ける月というのは昔は不吉なイメージをよく持たれていたようだ。ヨーロッパ事情はよく知らないが、日本では蜻蛉日記(たぶん)にそういう記述があったように思う。青白い月の光が両親を亡くしたばかりのこどもたちの顔に当たって不吉だ云々――かなりうろおぼえだが。
 しかし、そんなことは知らないはずの香織は何故かハイテンションだった。
「まあいいや。では不実の月に向かって『あたしのレポートが完成したらおごります』と――」
「なぜ!?」

 そして必死の抵抗もむなしく従妹のレポートは朝には完成し、なんだかうやむやのうちに今度、おごることになってしまった。
 それもこれもあれもすべて、結局、あの日に太陽が昇っても姿を現さなかった姉貴の所為にしては駄目だろうか。


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