耳鳴り
たとえば今歩いているような隧道。それから地下鉄。そして夜更け。
ひとりでいると耳鳴りを聴くのです。
わあん、と闇に谺するように静かに耳鳴りが頭の中の空洞でいつまでも響くのです。
ぴしゃん、と何処かで水滴が落ちました。その音は不思議に反響して耳の中に音を残し、まるで耳鳴りのように響きます。僕はその音が消えるまでゆっくりと考えたのですが、彼女の云う耳鳴りが如何なるものなのか、よく、分かりませんでした。耳の中で響く音というのは如何にも煩そうです。手をつないだ彼女は僕の困惑を受け取ったようで、いいえ、と云いました。
煩くはないのです。ふふ。可笑しいですか?
そう云って笑った彼女は、本当に可愛いらしく、僕はもう少しで禁を破って声を出してしまいそうになりました。しかし、彼女は僕が話を促そうとしたのに気付いたのでしょう。笑いを含んだ声で話を続けてくれました。
私は寧ろ、さまざまな喧騒のほうがひどく煩わしいと感じていましから、
耳鳴りは私にとって落ち着くものでした。
彼女は其処で言葉を切りました。そして、空いているほうの手で彼女自身の耳を塞ぎました。
ほら。
いまもまた耳鳴りが。
彼女がそう云ったとたん、確かに音が聞こえました。
わあん、と僕の深く静かなところに音が訪れ、響きました。
それから暫く彼女は何も云いませんでした。長く暗い隧道内には僕ら二人の足音だけが響きました。彼女もまた耳鳴りを聴いていたのでしょう。
そして、音が僕の中に深く沈んでゆき、収まってしまった頃、彼女と僕は隧道の出口へと辿りつきました。
僕が足を止めたので彼女もまた止まりました。
つきましたか。
そう彼女が云ったので、ええ、と僕は応えました。それを聴いて彼女は先ほどの可愛らしい笑みとは違う、とてもおだやかな笑みを浮かべました。
話を聞いてくださって本当にありがとうございます。
わたくしはずっと、この話を誰かにしたかったのです。
貴方が隧道の中では口をきいてはいけないということは知っていましたが、
せずにはおれなかったのです。年寄りのわがままにつき合わせてしまってごめんなさい。
彼女はずっとつないでいた手を離すと、深々と僕に向かって頭を下げました。
隧道を抜けたのであたりは光に満たされています。向こうには彼女を迎えに来る人影が見えました。
喧噪のとどかないこの広々とした地で、彼女はもう耳鳴りを聞くことはないのです。
わあん、と闇で谺するあの音を、僕に残したまま――。
終幕