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<Eros>
「私がジュリエットだったら絶対死なない」
 と、志乃がいきなり言った。何事かと思ってコンロの火を止めて居間をのぞいたら、彼女は風呂上がりのタンクトップと短パン姿でソファの上にあぐらをかいて座り、細身の眼鏡をかけ、僕が放りだしておいた『ロミオとジュリエット』の文庫をめくっていた。よほど性に合わないのか、渋面を作っている。それどころか、ぶつぶつとジュリエットだかロミオだかに文句を言っていた。だが僕にとっては、独り言よりも気になるのは志乃の格好の方だ。今の時期、湯上がりの薄着ではすぐに体が冷えてしまう。
「志乃、いつ風呂上がった?」
 しまったな、と思いながらも一応そう聞く。うちの台所はよく聞くカウンター式などというしゃれたものではない。それどころか三方を壁に囲まれた窓すらもない長方形の空間(部屋……部屋かな一応は。窓がないから夏場はとても暑い)なので、まな板に向かっていたり、コンロを相手にしていたりすると脇を人が通っても気づけないのだ。今、志乃の声を聞いたのはたまたま冷蔵庫を開けようと、台所の入り口付近にいたからなんである。
「さっき」
 と言う志乃の頭にはタオルが巻かれたままだが、手元の文庫の開き具合からするとかなりの時間が経っていそうだった。
「冷えるぞ」
「こんなに暖房効いてるし平気だよ」
「効いていても冷えるものは冷える」
 毎年毎年同じパターンで風邪を引くくせに、学習能力を持たないのが志乃だ。仕方がないので未整理の洗濯物から志乃のねまきを引っ張り出す。シェイクスピアに没頭する志乃にとりあえずかぶせようと近づくと、突然、首筋にひやりとしたものが巻き付いた。
「志乃!」
 タイミングを計っていたのだろう。僕は見事にバランスを崩した。だが、志乃の体も冷え切っている。首筋に巻き付いた志乃の腕をはがして、志乃が抵抗しかけているところでどさくさ紛れにねまきをかぶらせた。
「うぎゃ」
 恨みがましい目で睨まれても、そこで怯んでは志乃の相手は出来ない。
「とりあえずきちんと着てから。相当冷えてるよ」
 そう言うと、むうと唸りながらも志乃はしぶしぶ袖を通しはじめた。裾の長い物を選んだので(ネグリジェと言うんだったかな。とはいえフリルなどがついているわけではなく、中近東の方のどこかの国の民族衣装みたいなやつだ)、急場しのぎにはなるだろう。
「それでジュリエットがどうしたって?」
 ふてくされた志乃がねそべって、二人がけのソファを占拠してしまったので、僕は仕方なく立ったままだ。
「もしも自分がジュリエットだったら」
「僕は男だけど」
「後追い自殺なんかしないで、ロミオと従兄弟棺桶に自分の代わりに詰めて、新しい人生謳歌しようとか思わない?」
 志乃は真面目な顔と声でそう言った。きっと心の底からそう思っているのだろう。しかし仮定と結論がめちゃくちゃだ。と言うか、そもそも人の話を聞いていない。きっと繰り返しても、同じ問いしか返ってこないだろう。
「いや別に思わないよ。僕は男だし。じゃあ志乃は実際そういう立場に立ったらどうする?」
「隆明が死んだら……?」
 そう来るか、と正直ちょっと驚いた。僕は実際にジュリエットのごとく目覚めたら墓場で(以下略)という立場に立たされた場合を聞いてみたかったのだが、志乃は単純に恋人の死ととらえたらしい。起きたら傍らに死体という発想は浮かばなかったようだ。
 そして、盛大に悩みはじめた。外した眼鏡を脇のテーブルに置いて、狭いソファの上で器用にもごろごろと寝返りを打つ。どうやら興味の矛先はそらせたようだし、面白いから放っておくことにする。夕飯も作りかけなことだし、と僕は台所へ戻った。
 あ、髪の毛乾かさせればよかったかな。

 しかし、夕飯を作り終わって食卓を整え終えても、志乃は悩んでいた。呼んだら一応食卓へは来たものの、反応が遅い。
「志乃、シチューが冷めるよ」
「あ、ごめん」
 答えて志乃は素直にスプーンを手にした。とりあえず悩むのをおいておくことにしたらしい。今度は無心に食べはじめた。
「答出た?」
 おおむね食卓の上が片づけいてきた頃、僕は聞いてみた。しかし、志乃は食べる手を止めて首を左右に振った。
「それよりも隆明の死が想像できなかった」
 こころなしか悔しそうな顔をしている。問いに答えることが出来ないからだろうか。
 しかし、なんと言うか……殊勝なことを、と思う。まあ、残して逝く気もないし、手放す気もないし、そんなこと考えさせないようにはしていたけれど、なんとなくうれしい。
「確かにしばらく死ぬ気はないよ」
 大前提として。まったく、これっぽっちも、思っていない。
「それでも無理矢理死んでもらおうと思ったって、まず年齢設定に悩むし……」
 本当に真剣に悩んでいたらしい。ちなみに僕は悩むまでもなくただ一つの解答があるのだけれど、それはそれでたぶん志乃には悩まれるだろう。
「じゃあ、ジュリエットにならって十四歳から考えてみれば? あとは十年刻みでも五年刻みでも」
「十四歳……? ジュリエットって十四なの?」
 細身の眼鏡の奥で、志乃の大きな目が瞬く。
「そう。冒頭でじきに十四になるキャピレット家の一人娘って言う記述があるよ」
 たぶん、読み飛ばした際に見落としたのだろう。先程志乃がめくっていたのは、お世辞にも読みやすいレイアウトをした文庫ではない。
「うわ、なんてことをシェイクスピア……犯罪じゃん」
「シェイクスピア? ロミオじゃなくて?」
「うん。あ、でもそだね。十四の頃だったら、隆明が自然死なわけないから復讐に燃える(はあと)」
 ものすごく正論だが、自然死じゃないどんなシチュエイションを考えているのか気になるところだ。復讐の範囲が怖い。それにしても、聞き方が悪かったな。まったく現実味がないから感情を置き去りにするのは仕方がないのだとしても、もっと穏便に事故死とかそういう発想はないのだろうか。突発的な死病とか。
「……それは……どうも……」
 他に何を言えと? 志乃が行儀悪くもスプーンを加えたままなことは気になるが、それを注意する気力が根こそぎ持っていかれた。
「んで、二十四だったら……二十四か……うーん、でも二十四でも同じかな。隆明、病気してないよね?」
「命に関わるようなものはな」
 してないが……志乃……?
「三十四は……同じかなやっぱり……どしたの? 隆明」
 もうちょっと悩んでくれ。
「いや……ちょっと……質問変える。じゃあ、十四の時にジュリエットと同じシチュエイションに陥ったら?」
 そう言ったら志乃は少し考え込むような仕草をした。うーん、と唸りながら次の一口を再びスプーンごと飲み込む。
「それは、十四歳で一目惚れで式あげて相手がポカミスで追放されたから追っかけるために死んだふりしたのに、当の相手がひっかかって勝手に自殺されたらってこと?」
「そうだな……間違えってはいないな……」
 むしろ的確なあらすじと言えないこともない。ないが……なんか違うぞ志乃。僕だって別に熱心なシェイクスピアファンではないんだけど……何か激しく育て方間違えた気がする。まあ、育てたと言っても三つほどしか年の差はないのだが、志乃が三歳になる頃には僕は完全に志乃の世話係だったので心情的には兄に近いのかもしれない。ともかく、僕が考え込んでしまった脇で、考え終えたらしい志乃が口を開いた。
「サロメ、かな」
 ……何をどうしたらそういう結論に出るのかとっても不思議なんだが、志乃? サロメというと首を愛した人だ(この解釈はどうかとも思うが、詳しくは忘れた)。
「それか〈カニバル〉」
 僕の思考は今度こそとんだ。〈カニバル〉? ……カーニバル、ではないよな。
「……何をどうしたら、そうなるんだ?」
「……あれ?」

「ごちそうさまでした」
 と、志乃が手を合わせた。明日の朝に食べる分ぐらいはあるかな、と目論んでいたシチューは志乃の二度のおかわりで完全になくなってしまった。
「後片づけよろしく」
「はーい」
 食事の制作と片づけは交代制だ。僕が作る確率の方が圧倒的に多いが、それは志乃の料理の腕の所為ではなくむしろ僕の片づけ能力の所為である。別に皿を割ったり油やよごれをきちんと落とせなかったりするわけではない。丁寧にやりすぎてしまうせいか単純に時間がかかりすぎるのだ。
 志乃の料理があまり食べられないのは残念だけど、食後ゆったり出来るのはうれしい。おおむね僕はこの時間に風呂に入る。今日も、風呂から上がりってくると志乃は片づけを終わっていて、既にソファでくつろいでいた。肩にはまだタオルがかかっている。
「志乃、髪の毛乾かしたか?」
「まだ。隆明にやってもらおうと思って」
 もう用意してあるよ、と志乃はソファの肘掛けにおいてある、コンセントと既につながっているドライヤーを示した。
「……たまには自分でやろうと思わない?」
「全然」
 間髪なしの即答だった。
「だってうまくできないし、やってもらう方が気持ちいいし」
「…………わかった」
 仕方がないので僕は志乃の髪をいじりやすい位置に移動した。乾けばふわふわの猫っ毛な色素の薄い髪は、しめっている所為でぺしゃりと頭に張り付いている。ただ、さわってみるとさすがに時間のおかげでだいぶん乾いていた。これならば軽くかけるだけで十分だろう。
 かちり、とドライヤーのスイッチを入れる。とたんにファンがうるさく回り始めた。
「ひゃう」
 くすぐったそうに志乃が体をすくませる。だから僕としてはドライヤーをかけるのはあまり好きではないのだが、志乃がドライヤーのさなか僕を振り返るわけではないので、気づいてもらえないのだ。
「それで、サロメは?」
 もう一つは故意に無視した。どうせ一度には答えられないだろう。
「サロメはオスカー・ワイルドの解釈では〈すきになった人の首をもらう人〉だよ」
「ワイルド?」
 聞いた覚えはあるのだが、とっさに誰のことだったのかがいまいち思い出せない。
「イギリスの作家。えっと……『幸福な王子』も書いた人。わかった?」
「たぶん」
 『幸福な王子』というと……体中飾られていた石像とツバメの話だった、筈だ。読んだ覚えが何となくある。
「サロメのエピソードは聖書では全然、恋愛感情とか絡んでないんだけどさ。もらった首をその後どうしたのかわからないし、そのために殺そうとは思わないけど、隆明が死んでもとっておきたいなと思ったのはなんとなく頭だったんだよね」
 それでサロメ……解釈間違えってるぞ、志乃。
「あ、それと〈カニバル〉ってのは〈canniballism〉の〈カニバル〉」
 そうか……〈カニバル〉は〈食人〉か。本意は確かに〈共食い〉だ。
「と言うと……食べるのは」
「隆明の肉」
 水気の飛んでいく志乃の髪は、次第にふわふわとした感触を取り戻しつつある。
「――またなぜ?」
 かなり意外な答えだった。……食べる、か。
「究極の〈傍にいる〉は、それだと思ったの」
 志乃は僕に背を向けたままそう言った。
 そして、実際は食べれたものじゃないかもしれないけどね、と付け足す。確かにそれは言ている。人間は基本的に雑食だ。雑食で食肉と言えば狸である。確かに食べることは出来るのだが一度わらに包んで土に埋めておかないと食べられたものではないそうだ。狸の肉はものすごくくさいのだと言う。銀杏と同じような処理なのは少し笑えるけれど、もしかしたら人肉もそんな風に処理すれば少しはおいしくなるのかもしれない。試すことが出来ないのは残念だ。
「それで隆明は?」
「どうすると思う?」
 そう応えると、志乃はむ〜っと唸りながら体全体を傾げた。
「………………こんなに私が悩んだのに隆明の意見なし?」
「僕の解答は聞いてもしょうもないよ」
 といって、僕はドライヤーのスイッチを切った。これだけ乾けばもう十分だろう。
「終わったよ」
「……ありがと」
 志乃はそう言うと肩にかけていたタオルをとって、ぬれた猫がよくやるように身を伸ばしながら身震いをした。立ち上がると同時に僕の手からドライヤーを回収して、洗面所へと片づけに行く。
 しかしすぐに彼女は戻ってきた。かろうじてタオルだけは洗濯機に放り込んで来たらしいが、ドライヤーを片手に握りしめたまま、僕の目の前にぺたりと座った。
「隆明はもう決めてるの?」
 何を、とは言わない。
「決めてるよ」
 だから、何を、とは言わなかった。
「――そっか」

 それからすぐに手の中のドライヤーに気づいた志乃は、慌てて洗面所へと逆戻りし、ようやく居間へと帰ってきた。そのまま再びぺたんと床に座り込んでしまったので、自然とソファに座っている僕の視界には彼女のつむじが入る。
「あした、私が夕飯つくっても……ほわ……いい?」
 と、言いながらあくびを漏らす。髪の毛を乾かしてもらって暖まったからか眠くなって来ているらしい。目尻に浮かんだ涙をこすろうとするのを制止して、代わりにぬぐってやる。
「別にいいけど……珍しいね、いきなり」
 家事は一応分業ということになっている。おおむね、その仕事を早くこなせる方が分担していることが多い。料理する時間は僕は短いし、志乃は長い。片づけはその反対だ。どの作業をとっても腕に大差はない。
「突然、ビーフシチューが食べたくなったの」
 そうか、と僕は頷いた。よくあることだ。今日の夕飯もアイリッシュとはいえシチューだったのだが、志乃には関係ないのだろう。ちなみにアイリッシュシチューとはルウの入らないシチューのことで、人参、ジャガイモ、玉葱、肉(うちではおおむね豚バラを入れているけれど、本来は子羊の肉を使うらしい)を煮込んだものだ。
「それにしても十四歳か……」
 いつの間にか志乃は再びシェイクスピアを開いていた。
「正確には十三歳だな」
「うん。ぴちぴちの箱入りさん。それにしてもロミオ……嫌なやつ」
「何が?」
「なんかやだ。ジュリエットが死んだと聞いて、街に戻ってくる時にあらかじめ、立場弱い薬屋から、毒薬買って来ちゃうところとか特に」
 それは……死に方が気にくわないのか?
 志乃は本を広げたまま、床に寝転がった。そのままごろごろと左右に転がる。
「ロザラインからあっさりジュリエットに乗り換えてるんだから、また別の人探せばいいのに」
 ロザラインと言うのはロミオが最初惚れていた女性だ。美人だそうだ。
 そこまで考えてようやく僕は志乃の最初の言葉に納得した。
「それで『ジュリエットだったら死なない』か」
「うん。相手がロミオだったらね」
 答えて、志乃がぴょこんと体を起こす。
「隆明でも死なないよもちろん♪」
 それはさっき聞かせてもらった。そしてまず僕は食べられるのだろう?
「あ、でも毒で死なないでくれるとうれしいな。さすがに隆明のでも毒された肉は嫌だし」
 よじよじとソファに、僕の隣に志乃がのぼってくる。どうするのかと思えば、眼鏡は脇のテーブルに置いて、僕の膝を枕に横向きに寝転がり、えへへ、と笑う。
「はいはい」
 それで。
 くしゃり、と絡まった髪の毛を梳いてやりながら僕は思う。
 それで、志乃が生きていってくれるのならばいい。
「そういえばね、生の本能を〈Eros〉と言うんだって」
 今にも眠ってしまいそうな、とろけた表情で志乃が言った。
「なにの……?」
 うまく漢字変換が出来なくて思わず僕はつぶやいた。〈Eros〉というと性愛……だったような気が。しかし、僕のつぶやきだけで何を言いたいのか察したのだろう。志乃はゆるゆると頭を振った。
「生の本能。フロイトの提唱した〈Thanatos(タナトス)〉に相対する本能。ええと、life instinct(=生の本能)ってやつ」
 タナトスは誰でも死にたいという思いを抱いている、という考えだったか。ギリシア神話では死を擬人化した神の名だ。
「〈Eros〉……」
「そう。本能なんだよ。生き続けることは」
 ほわ、と志乃がまたあくびを漏らす。
 膝にかかる暖かな重み。
 個人がただひとりで生きたいと願うだけではなく、本能がそう告げるのならば。――いや、本能がそう告げ続ける間は、ひとは生き続けるのだろう。いつか何かが生への絶望を告げるまで。
 死んでしまったジュリエットは、あの話の中で一番強い〈Eros〉を持っていた。だがその〈Eros〉を断ち切るほどの絶望とはどれほどのものだろう。
 志乃が無防備に寝息を立てはじめた。
「志乃……?」
 返事は帰ってこない。一度寝入ったらなかなか起きないのはよくわかっている。だから志乃は僕の独白を聞かない。
 置いて逝かれるつもりも、置いて逝くつもりも今のところはない。
 それでも不測の事態はあるだろう。僕がひとりで残される事態も、志乃がひとりで残る事態も十分にあり得る。
 志乃は僕を食べると言った。だが、その前に絶望にとらわれないとは限らない。ひとり取り残されたジュリエットが容易く死んだように、志乃が絶望しないと誰が言える?
 さきほど、僕の死という仮定そのものが考えられないと言った志乃。その解答は酷く正しい。本当はそんなことは考えるべきではない。これから過ごす時間をすべて仮定で埋め尽くしては、余地がなくなってしまう。その仮定がネガティヴであればあるだけ、〈仮定〉の未来へと加速するだろう。僕が既に志乃を失った場合の答を出してしまったように。
 どの状況に落ちようとも死ぬなと言うのは簡単だ。その反対もまた容易い。
 だが、それでも――
「死ぬなよ……」
 掌にふわりとした髪の毛の感触が残った。


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