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Traitor
 こんなのはずるいと思った。
 絶対に許せないと思った。
 大切な約束だったのだ。
 いいや、あれは約束などという甘いものではなく、もっと固く互いを束縛するものだった。命をかけた、誓約。
 永遠だと思っていた。
 彼は裏切らないだろうと信じていた。
 それなのに、よりにもよってこんな形で破られるなんて。

 ──永遠に、戦いあうと誓ったのに。

「勝ち逃げするなんて……! 裏切り者!」
 目を閉じれば、彼の笑った顔ばかりが思い浮かんだ。
 それは決して、爽やかなものでも穏やかなものでもない。
 優越感に満ちた、勝利者の笑みだ。
 そう、あいつはいつだって余裕綽々だった。その笑顔が癪に障って何度逆上したことか。

 ──だからこれは、悔し涙なのだ。





「すずー。すず? ちょっと、どこにいるんだい」
 遠くから名を呼ばれ、すずはうっすらと目を開けた。
 母だ。煙草の吸いすぎでひび割れてしまった声は少しかすれている。健康に悪いと知っていながらもやめられなかったのは、今も続けている仕事にそれだけ苦労が多いからなのだろう。
「すず? なんだ、こんな所にいたのかい。何やってんだい電気も点けないで」
 言葉と同時に真っ暗だった居間に明かりが点る。ようやく顔を上げた娘の顔を見て、冴は苦い笑みを浮かべた。
「……ひどい顔だね」
「ほっといてよ……」
「そういうわけにもいかないだろ。っとに、一人じゃ何にもできないんだから。飯は食ったのかい?」
 訊きながらも彼女の足は娘のそばを通り抜けて台所へ向かっている。憔悴しきった顔を見て、わざわざ確認するまでもないと判断したのだろう。
「あんたがそんなことでどうするんだい。シャキっとしな、シャキっと!」
「……あたしはおかーさんの部下じゃないのよ。命令されるいわれはないわ」
「かっわいくないねえ。部下じゃなくたって娘だろ。それに命令してんじゃないよ、忠告してんの!」
 忠告、を強調しながら、母は手早く炊飯器に残っていたご飯を盛りつけ、湯を沸かし、お茶漬けを作った。冷蔵庫からとりだした梅干しをちょんと乗せればできあがりだ。
 ほれ、とふてくされている娘の前に丼を置く。
「……なんでいきなりお茶漬けなの」
「あんたあたしが料理できるとでも思ってんのかい」
「…………」
 胸を張って言い切られても、ちっとも自慢になってない。
 すずは大きくため息をついたが、母が心配していることは感じられたので大人しく箸を付けた。
 静かすぎる部屋の中、すずのかすかな咀嚼音だけが響く。
「……やつれたね」
 ぽつりと、母が呟いた。
「まあそれも無理ないけど。……あんまり思い詰めるんじゃないよ。悲しいのは判るけどさ」
「別に悲しくなんかないわよ」
「おーやおや強がっちゃって。じゃあそのウサギみたいな目はどうしちゃったんだろうね?」
 茶化すように指摘すればすずは心底嫌そうに眉を寄せた。言葉を返すのも億劫になったのか、黙りこくり、派手な色で存在を主張する梅干しをほぐし始める。
「……素直にお泣きよ。好きなだけ泣いちまえば、段々楽になってくるさ」
「楽になんか! なるわけないじゃない!!」
 元々気性の荒い娘は母の言葉に激昂した。怒りのままにテーブルを叩く。
「おかーさん勘違いしてるわね? あたしが、あいつが死んで悲しんでると思ってるんでしょ?」
「違うのかい」
「ぜんっぜん違うわ!! あたしはね、怒ってるのよ!」
 二度目の衝撃でテーブルに乗っていた新聞がばさりと床に落ちた。
「あたしはただあいつに勝ちたかったの……! それなのに裏切られたの! 悔しいの!」
 あんな奴信用するんじゃなかった。信じなきゃ良かった。
「大嫌い……大嫌いよあんな奴! なんで、なんで……!」
 苦々しく吐き出すすずの瞳から透明な雫がこぼれ落ちた。母は、それをひどく冷静な目で見つめていた。
(……裏切った、か。ある意味その通りだね)
 確かに彼は裏切った。すずだけでなく、その母までも。
 約束を違えた。
 だが、娘とは違い、冴は彼に失望してはいなかった。彼の行動に対し単純に怒りを覚えるほど、彼女は考えなしでも世間知らずでもなかった。
「──すず。だけどね、あたしはあいつに感謝もしてるんだよ」
「どうして!?」
 条件反射のように母親を睨みつける娘は、噛みしめていたせいか唇が切れてしまっていた。
 諦めにも似た薄い笑みを、冴は浮かべた。
「だってあんたが残ったんだから、当然だろう。あんたが今ここにいるのはあいつのおかげだ。そうだろう?」
「…………っ」
 すずは悔しそうに唇を噛んだ。うっすらと血がにじみ出す。
「あたしは守って欲しいなんて言ってない……っ」
「判ってるだろうに……。あいつがあんたを守るのは当然だろう。妻なんだから」
「そんなの関係ない! 第一結婚したのは、あくまで一番近くにいるための手段でっ」
「だったら同棲で充分だろうが。あんたも大概だねえ」
「あたしとあいつは、戦ってたのよ!? 熾烈な争いをしてたの!」
「知ってるよ、この悪ガキどもが。あいつが──有也がうちに来た時からだろ。お互いをいかに出し抜いて罠にはめるかなんちゅうややこしいゲームなんかやって」
「ゲームじゃなくて真剣勝負!」
「あーそうかいそうかい」
 冴はどうでもよさそうにぱたぱたと手を振った。
 正直なところ、この夫婦が繰り広げていた争いは、母親である彼女にとって迷惑以外のなにものでもなかった。幼い有也をひきとり便宜的な保護者となっていた彼女には、二人が引き起こすさまざまな騒動の後始末というたいそうな苦労を強いられていたのだから、当然といえば当然の話だ。
 庭を歩いていたら落とし穴、くらいならかわいいもの。真夏、シャワーを浴びている最中にガスのスイッチを切るのも、まだいい。しかし、ベッドの中にカエルのタマゴを入れて驚かせようとしたり、寝ている間にこっそり水をまいて夜尿と言ってからかうのはやめて欲しかった。
 砂糖水にして糖尿病扱いしなかっただけまし、といったアホはどちらだったか。どちらにしても度重なる悪質ないたずらのため二人のベッドは何度となく買い換えを余儀なくされ、ぶちきれた冴は、子供たちが騒ぎを起こすたびに二人とも平等に殴りつけることにした。
 だが、それでも、後に夫婦となる娘たちの間に、他の者が割り込めない強い絆が存在していることは判っていた。
 もともと有也をすずにあてがったのは彼女だ。あることがきっかけで異常なほどの引っ込み思案になり、学校へ行ってもクラスにとけ込めず心を閉ざしていた娘をどうにかしてやりたくて。そしてそれは、大成功だった。多大な迷惑をかけるようになったけれど、有也は確実にすずの心を開かせ、こちらの世界に引き戻したのだから。数年後には、彼女をして好きな言葉は勝利の美酒と言わしめるほどに。
 ──生涯の好敵手と一番身近にいるための手段などと言ってはいたが、本心ではしっかりと愛し合っていたのだろう。それが判っていたからこそ、彼女は二人の結婚を許したのだ。
 それなのに、まさかこんなことになろうとは。
「勝ち逃げだわ。そうよ逃げたのよ……。悔しい。悔しい。悔しい……!」
「あいつがそう簡単に逃げるようなタマかい。まったく、死んだあとここまで妻に罵られる旦那もそうはいないだろうよ」
「知ったこっちゃないわよ。どうせ……どうせもう聞こえちゃいないんだから……」
 ──事故、だった。
 赤信号にもかかわらず交差点に侵入したバイクを避けようとして、トラックが歩道につっこんだのだ。そしてその時運悪く歩道を歩いていたのが、すずと有也だった。
 気がつくのが遅かったのだ。迫り来るトラックを目の当たりにして棒立ちになったすずを、渾身の力で有也が突き飛ばしたときには、トラックは避けようのないところにまで接近していた。そして次の瞬間、彼は姿を消した。
(でかいトラックで良かったと思うのは、やっぱり罰当たりだろうね)
 だが、車体が大きかったために、すずは有也の悲惨な姿を見なくてすんだ。前方向に突き飛ばされたために決定的瞬間も見ていない。それは奇跡のように思えた。
 見てしまっていたら、今も目に焼き付いて忘れられないだろう。
(まったく、最期までよくやってくれるよ)
 意地っ張りで強がりばかり言うすずを、有也は真剣に愛してくれていた。かわいげのない娘で悪いねえという養母に、とんでもないそこがかわいいと言うんですよ、と真顔でのろけなのかフォローなのか判らない言葉を返し、実際に妻にも一日一回は口説き文句を言っていた。照れ屋で負けず嫌いな妻が、嫌がると判っていて。
(性格の悪い男だ)
 命がけで妻を守り愛したのだから、いい旦那だったと言ってもいい。
 だがあいつのことだから、遺されたすずがこうして悔しがることを想定していたんじゃないだろうか。そんな考えも浮かんでしまう。
 ひょっとしたらその死に様ですら、命がけの嫌がらせだったのかもしれない。だとしたら大成功だ。
 ──だが、成功こそしていても、彼は喜ばないだろう。こんな勝負には勝ちたくなかったに違いないのだから。
「大嫌いよ……」
 すずの呟きは、あまりに切なく、哀しかった。

「けどいつまでもそうやってるわけにいかないだろう。あんたは生きてて、まだ若いんだし」
「……もうどうだっていいわ」
 吐き捨てるような言葉は、母親の胸を突いた。
 このバカ娘、と怒鳴りそうになるのを彼女は多大な努力でもって我慢した。この娘は感情論に走ったが最後、梃子でも動かない頑固者なのだ。負けず嫌いで素直じゃなくて、本当に扱いにくい。こんな女と結婚までできた有也には心底頭が下がった。
 だが、ただ故人を感心している場合ではない。冴は彼に習い、搦め手で攻めることにした。
「──そうかい。じゃ結局あんたはあいつに負けっぱなしだってことだね」
「なによ、それ」
「おや、違うのかい? ここで後追い自殺でもしてごらん。あんた、あの世で有也に指さして笑われること間違いなし」
「!!」
 冴の言葉は、最大限に効いた。
 弾かれたように全身を緊張させたすずは、こめかみを細かく痙攣させた。あと一押し、と母は内心で呟く。
「ま、そうでなくても爆笑してるかもね。何しろ今のあんたの顔ときたら……」
 すずは言葉にならない叫びをあげた。
 あたふたと立ち上がり、手鏡を持ってきて自分の顔の状態を確かめる。
 舌打ち。
「た、確かに笑われてる気がする……! 何よこの顔。なんなのこの頬のこけ方! こんなんじゃまたあいつに『すずはほんっとにかわいいよね』って嫌味を言われるじゃない!」
 ──たぶんそれは誤解なのだろうが、彼女の辞書に素直という言葉はない。
「目も落ちくぼんでるし……。最悪……!」
「そりゃあ、寝ないで食べなかったらそうなるのは当然だろうね」
 すずは女の口から出るとは思えない罵倒を吐いた。

「だって……本当に悔しかったのよ」
「……悔しいだけかい?」
「…………」
 とすん、と腰を下ろした彼女は、昔の心を閉ざしていた頃を彷彿とさせた。
 何かを言いたそうなのに、口を開かない。言いたくても言葉が見つからないのか、自分には言いたくもないという拒絶なのか、それすらも判らない。
 あの頃は辛かった。どう接したらいいのか判らず持て余していた娘を、偶然引き取ることになった有也に任せてしまったのは、仕事を言い訳にした自分の完全な逃げだった。
 それなのに、天性の頭の切れと性格の悪さで母娘の溝を埋めてくれた有也。
(──本当に、最高の男だ。あんたは)
「……おかーさん、目から水が出てるけど」
「あんたなんか鼻から出してるくせに」
「…………」
「…………」
 二人はしばし無言で鼻をすすった。
 母親の涙にもらい泣きしたすずが、ぽつりと呟いた。
「……あたし、明日からはちゃんとご飯も食べるし睡眠もとるわ」
「そうかい」
「そうでなきゃあいつに勝てないもの」
「……そうだね」
「思いっきり健康的になって、思いっきり長生きしてやるわ。それで……それで、死んであいつにもう一回会ったら、あたしは幸せに生きたわって、高笑いしてやるわ……っ」
 嗚咽混じりに誓いを立て、娘は両手で顔を覆った。
 手を伸ばし、母がその頭をそっとなでる。
「いい奴だったねえ……」
「……うん……っ」
 二人は同時に息をつき、涙を流した。
 そしてそれぞれの心の中で、最大限の賛辞を送った。

 命を賭して愛する者を守った男に。
 死してなお妻を支える男に。

 最期まで勝利をさらっていった男に──


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