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K
 離れた瞬間ひどく惜しくなって、また触れあわせたくなった。
 けれどそれを求めるのは何だか気恥ずかしくて、あたしは口をつぐんだ。彼と付き合うようになって随分たつけれど、いまだにこういうことは慣れない。
 だから、代わりに他愛ない疑問をぶつけた。
「そういえばさ、よく少女漫画とかでキスはレモンの味とかイチゴの味だとか言うよねえ。あれってどうしてだろうね?」
「酸だから」
 唐突な言葉だったにも関わらず、彼は即答した。
 だがそれはあたしの理解を見事に超えていた。……いつものことだけど。
 彼の会話で上手にキャッチボールをすることは至難の業だ。なぜなら彼の投げるボールは常に変化球なので、素人のあたしにはなかなか受けとめられないからだ。
「ええと?」
 あたしは素直に聞き返した。解説、お願いします。アキヒロさん、と目で訴える。
「理科でやらなかった?」
 お茶いれよう、と彼は立ち上がった。あたしは視線でそれを追う。手伝おうかなとも思うのだけれど、彼は自分の部屋で他人が歩き回るのは嫌だと言っていつも何もさせてくれない。ソファにちょこんと座ったあたしが立ち上がるのは、帰るときかトイレを借りるときだけだ。
 理解していないのが判っているようで、だからさ、と彼は続けた。
「酸性のものはすっぱくて、アルカリ性だと苦いんだよ。そういう実験しなかった?」
 そもそも「酸っぱい」と書くんだしさ、と言いながら何を飲みたいのか訊いてきたので、あたしは少し悩んでからアップルティー、と答えた。正直に言うと紅茶なら何でも良かったのだけれど、この家にはいろんな種類の紅茶があるので種類まで指定しないと通じないのだ。
「そう言われれば、やったかもしれないけど。それとこれとどう関係が?」
「だから、酸性だから」
「……ごめん。わかんない」
 やかんを火にかけて戻ってきた彼は困ったような顔をしていた。それを見てあたしは、申し訳なく思うと同時に少しだけ嬉しくなる。
 彼は頭がいい。そして物知りだ。
 だけど、その知識をふりかざして無知なあたしを馬鹿にしたり笑ったりしたことは一度もない。だから、この顔は単純にどう言ったらあたしが理解できるかを悩んでいるだけなのだ。
 とはいえ全部を彼任せにするわけにもいかないので、あたしも一応の努力を試みる。
「酸性のものがすっぱいっていうのは判った。……で、それが?」
「レモンもイチゴもすっぱいだろ。まあ、イチゴは甘いほうがいいんだけど」
「ふむふむ。そうだよね。それも判る」
「そういうことだ」
「……どういうことだ……?」
 あ、少し泣きそうになっちゃった。
 論理が飛躍していると思うのはあたしだけ? それともあたしが馬鹿なだけ?
「だから、すっぱいんだよ。唾液は。酸性だから」
「……え!?」
「なんで驚く」
「うそ!?」
「なぜ嘘」
「え、だって、唾液でしょ? 酸性なの? それは健康でない証拠じゃなかった?」
 確か唾液が酸性になると虫歯の原因になるんじゃなかったっけ?
 他にもあったような気がするけど……。
 すると、彼はあっさりとあたしの言葉を肯定した。
「ああ、確かに酸性に傾きすぎるとよくない。正確には、弱酸性」
「……そうなの?」
「そうなの」
 pH6くらいだったかなあと彼は数字を出したけれど、理系科目から離れて久しいあたしはぺーはーがどういうものだったかすらよく覚えていなかった。ごめんなさい生物の先生。あれ、化学だったっけ?
 まあ、どっちでもいいか!
「……それで──すっぱい、の?」
「たぶん」
 イチゴとレモンが出てきたのは、それだけメジャーな食物だからだろう、と付け足し。
「な……なるほど……」
 ものすごく説得力のある答えだったので、とりあえず納得はした。
 したけれど──
 訊かなきゃ良かった、かも。
 やかんが鳴り出したため彼はキッチンに向かい、でもすぐに戻ってきた。そしてポットからいいにおいのする紅茶を注ぎながら、ちらりとあたしを見て小さく笑う。
「へんな顔してる。どうした?」
「へんな顔は失礼だよう。──ちょっと後悔してた」
「なんで?」
「だって……」
 別に、本当にレモンやイチゴの味がするものだと信じていたわけじゃないけど。
 それを期待していたわけじゃないけど。


 でもなにか、ロマンとかそういうものが失われた気がしたんだもん。


「やっぱりあたし理系にはなれないなあ」
 ため息をついて、あたしは呟いた。
「数学が致命的にダメだったから?」
「ちっがーう。いやいや、違わないけど。そうじゃなくて」
 はい、と渡されたカップを受け取り、息を吹きつける。あたしは猫舌なのでいれたての紅茶なんて飲めないのだ。ふわり、とりんごのいい匂いがする。それだけでちょっとしあわせ。
「……そうじゃなくてね」
「なに?」
 理路整然とした論理で物事をとらえていたら、感性が失われるような気がするから。
 ──そう答えようとして、思い直した。それは違う気がする。それでは理系のひとは感性がないということになってしまう。
 少し言葉を探して、でも上手く言えそうになくて諦める。
「あたしは甘ちゃんで子供だから、キスはすっぱいんじゃなくて、イチゴの味なんだと信じたいんです」
 あたしイチゴ好きだしね、と付け加えたら、なんでか彼は吹き出した。
 そしてあたしに背を向けしゃがみこんで、しばらく肩を震わせていた。


 …………。
「……あたしなにかおかしいこと言った?」
「いや、おもしろかった」
 ……この場合のおかしいとおもしろいの違いを五十字以内で述べよ……
 憮然としていたら、彼は笑いの余韻を残したままカップをとりあげ、あたしにキスをした。
「……ええと?」
 唇が離れて、また名残惜しく思いながらも意図が掴めずに首を傾げる。
 彼は笑うだけで、解説はしてくれなかった。
 でも別にいいか、とあたしは追求するのをやめた。
 だって、あたしは甘ちゃんで子供だから。
 明確な行動理由を説明されるより、キスをしてもらう方が断然うれしいのだ。